ここは、敵の新型スーパーウルトラ兵器によってほとんどの生物が一夜にして絶えてしまった街である。むかし我々が「無生物」と呼んでいた石や金属、ガラスやプラスチックは毛ほどのキズも受けず、一方で草や木はそれまで自分が生きていたという何の痕跡も残さないまま、まるで瞬間冷凍に遭ったかのようにきれいさっぱりと死んでいた。代わりに今は、発電機と送電線そしてそれに生かされた交通システムが地下で嬉々と活動し、前に我々が使っていた交差点の信号は、一体化した巨大な生命のプルスを地上に隠せないまま点滅を繰り返している。このわけのわからない超グロな生き物は他にもいくつかの街を飲み込んだらしい。いつまで居座るつもりなのだろう。
爆発の数時間前、僕は通りを歩いていた。うす明るい夜の山の端からすぐ上の、大きなうす赤い満月をよく覚えている。まだ宵の口ということもあって、買い物袋をぶら下げたおばさんに交通整理の警官、仕事帰りのグループや段ボール箱を抱えた配達員など、通りは結構な人でわんわんとにぎわっていた。いつもの交差点でふと見ると、歩道の脇の芝生に置かれた木の椅子に、こげ茶色のマントの首をさらに灰色の布でぐるぐる巻きにして、老婆がちょこんと腰掛けていた。シワシワの口にくわえたキセルからは紫色の煙が一本すっと立っいて、イーゼルにかけられたサインボードには、白いチョークで「恐竜売ります」と書かれてあった。なんとなくつられて僕が近づこうとすると、老婆の肩に乗っていた黄色いトカゲのような生き物が、首から上を半周クルリと回転させたかと思うと、上下に小さな歯がぎっしりと揃った口を大きくあけて僕の方を(たぶん僕を)威嚇した。そして、
「シワシワでない老いはない。老婆でない101歳はいない」と言った。
それが演繹的だったのか帰納的だったのか、もしかしたら三段論法のようなものでなにかに抗議していただけなのか、僕にはさっぱりわからなかった。実際ツルツルの老いだって確実にあるし101歳の爺さんだってちゃんといる。それと最近の学説では恐竜は鳥になって残ったはずだ。老婆は薄い愛想笑いをうかべて僕の方をずっと見ていたが、ニセモノの恐竜と毎日こんな議論をして過ごすなんてまっぴらだ(そいつはあと10年は死にそうに見えなかった)。僕は老婆の前に置かれていた空き缶にポケットのお金をいくらか放り込み、そのまま振り返らず急いで通りを抜け、2ブロック先にあるアパートのこの201号室に戻ってきた。それだけだ。とにかくいつもと変わらない夜だったと思う。ただ単に、僕のその部屋が、爆心地とスイミングクラブとを結んだ直線の延長線の上にちょうど乗っかっていたということである。「永遠の健康を」などというビラに騙された善人たちを昼夜問わず満足させるために溜められた2000立米のカルキ臭い温水によって、このあと街全体を放射状に貫く重粒子のシャワーから、僕は奇跡的に守られることになった。
ときおり覚めそうになる意識のうねりを何度かのりこえたあと、目をあけると、ベッドに沈んだ頭はやっぱり僕のままで、食道から胃のあたりはムカついたままだった。壁の時計の4本の針は爆発6日後の午前5時半を指していた。本棚のわきにある鉄の窓を少し引いて外をうかがうと、ゆうべからの風はまだひゅうひゅうと吹いていて、ちぎれた麦わら帽子のつばの部分が舗装路の上でくるくるとトリプルアクセルを滑っていた。僕はベッドにすわりなおし、机の上のボトルに残してあった水をひとくち、口の中で少し温めてから飲みこんだ。そして二重に巻いたザックのヒモを解き、中を探って食べかけのビスケットを取り出した。あけた窓から朝日が射しこんでくる。照らされた壁の一部がまっ白にはじけ、黄色い光の輪がたちあがる。雨上がりの砂ぼこりのようなにおいが部屋の中に満ちる。僕はギルガという名で、たぶん今日この街を出る。朝日はすぐに部屋の隅で小さくなった。
イゼゴラと名づけられた巨大な交易センターは、ヒリウス港の2kmほど手前にある。港からは片側2車線の貨物専用道路が敷かれていて、センターの外側をひと回りしたあと、運河に沿ってゆるやかなカーブを描きながら内陸に向かって伸びていた。運河の上には鉄道も動いている。(もちろん誰も乗っていないしおサルの運転手なんて元々いない。) 2本の線路の側面はぶ厚いサビに覆われたままだったが、空を向いた一面だけは今日もピカピカに磨かれていた。表面からにじみ出てくる鈍色のスペクトルは、自分が本物の鉄であるというたったひとつの証拠なのだ。4000年のあいだ病気もせず休暇もとらずあんたたちを支え続けてきたんだよと、そんな悲しみや不満は枕木の下にでも押し込めてしまったのだろう。彼ら自身の弁によると、フニャフニャの「下等元素」である錫や鉛に首根っこを抑えられながら茫々と年月を貪っていた先代の銅などと自分たちとは「属が違う」のだそうだ。(してみると炭素のことはどうも内緒にしておきたいらしい。)
しばらくすると、やはり線路と同じ色に錆びきった車輪の列が、ゴトリゴトリと、目の前に横たわるすべての光をおしつぶしながらゆっくりと近づいてきた。
ゾンビかなにかの断末魔(死なないけど)を思わせるブレーキ音をまきちらし、あずき色の電車は、イゼゴラのすぐ前にあるプラットホームに沿ってゆっくりと速度を落とし、停止線の真横に鼻先をそろえるようにして停車した。と同時に、まるで砂の女が金槌で包丁を打っているようなカンカンという恐ろしい音もピタリと止んでくれた。(本当に割れ鐘を叩く遮断機があったとはオドロキだ。)
「イゼゴラ」とは、大昔にあったアセナイという国で作られた言葉である。元々は、自由/主張/投票 などという意味を持っていたらしい。アセナイはこの「行動の方法論」を「主義」として掲げ、そしてあっという間に滅びていった、と入り口にある大きな5角柱のモニュメントには短い説明が刻まれている。そのあと20世紀から21世紀にかけても同じように「自由主義」という主義でもなんでもないただの熱狂が世界を支配しようとした時代はあったようだが、この600年間そのうごめきが北極海の氷程度になんとか収まっているということは、我々の学習能力もそれほど悲観したものではないということだ。ぼんやりとでも未来を描きそこに小さな期待と安らかな希望を得るためには、法であれ暴力であれ一定程度の圧迫と怖れが社会には必要だということを、今では誰もが認識している。ギルガは、イゼゴラのゲートを抜け、巨大な2つのドームをめぐる回廊に入っていった。この回廊を、当時六務官だった父も毎日渡っていたに違いない。
私達が歩いているレイル6からも、イゼゴラの中心に固まって立つ3つの建物はとにかく巨大な人造物で、常に視界の端にまとわりついてきた。
イゼゴラからは歩行専用の道も何本か出ている。だがすでに何の事業にも供用されなくなった島の中心部(形としての)へ向かうのはこのレイル6だけだ。道の最初の数キロメートルは貝殻を焼き砕いた人工の砂で固められていたが、少し離れると地面は班晶の無い玄武岩がむき出したままで、ひと皮剥いたら中は真っ赤に焼けているのではないかと思ってしまうほどの骨炭色をしていた。この島の北半分は噴火と造山活動に由来する山でできている。レイル6はその南の山裾3合目くらいを割く形で削られた道で、ところどころが外に向かう支線のように新しく切り崩され整地されはじめていた。どの部分も区画を示すロープや標識はまだなく、埋設処理場の予定地がどこから始まってどこで終わっているのかもほとんどわからないままである。
一旦止んでいた風がまた少し吹きはじめた。振り返ると来た道は薄い霧で色を無くし、道の両側を隈取るハイマツの葉はまるで鉛筆で描いた下絵かスケッチのように静止していた。この仕事に駆り出された生徒たちの会話が、まるで線路のつなぎ目で定期的に響くバスドラのように流れてゆく。まさか歩きながら居眠りしているわけではないが、私は半分だけ夢の中で起きていた。
「先生もうギブですか。ほら元気出して」
コーヒー豆のように焼けた腕を上下させながら、5人の中では一番背の高い生徒が振り向いて話しかけてきた。すると、
「今晩どうですか。俺たち西の桟橋へ釣りに行くんですけど付き合いませんか。」
すぐに隣の小さな方がその新しい空気をささえるように場を作ってくる。なまなかのコンビではここまで呼吸を合わせる事は難しい。
その軽快なリズムについて行けず私が「んー..」などと唸っていると、
「そうよ先生行きましょう、どうせ帰っても一人なんでしょ」
二人のうちボウスという名の女子生徒がそう言いながら、私の肩を2度3度叩いてすたすたと脇を追い抜いていった。ボウスは昨日、遅れて大陸から渡ってきた一番下の弟が学校に通い始めたことをうれしそうに話していた。この週末にはそろって海水浴に行くらしい。私が最初にボウスと会ったのは4年ほど前だったろうか、遠いつてを頼り何ヶ月もかけて子どもたちだけでこの島にやってきた。長い行程で肺を少し病んでいた妹が入院することになったのが当時私の担当していた町の施設だったのだ。最低限必要な部分しか書かれていない経歴を見て、私はこの計り知れない苦難を見事に乗り越えた人間それも子供という生物に驚き感心したものである。だが、このことについて彼女が何かを非難したり不幸を語ったりするのを私は聞いたことがないし、自分のことを肯定してほしいという欲求など彼女からは露ほども感じたことはない。
女子生徒のもう片方、ヘジュは薄茶色の髪を巾着のようにひっつめて後ろで結び、私の前をザックザックと歩いている。今朝から私は、これはなにかに腹をたてているのかなと少しビビっていたのだが、どうやら当たっているらしい。
「先生の頭の中は一日中あの地図のことでいっぱいなのよ。仕事の虫っていうのかなあ..」
ヘジュは毎年11月からの4ヶ月ほどを故郷のヒリウスで過ごし、2月になるとここにやってくる。ヒリウスにはもう家族も親戚もいないようだが、幼い頃からの友人たちと様々なアルバイトを掛け持ちして、なんと1年分の学費を4ヶ月で稼いでしまうそうだ。たまに港に立つ外国の市場を眺め歩きながら、船員や商人たちとよく話こんだりしているという。私は彼女の手足の動きや表情に際立った特徴を発見していた。それは肌という外殻が重力と空気の流れに沿ってただ揺れているだけに見えるのだが、なにかを演出したり求めたりするそぶりがまったく無いという「様子」なのである。体の部品がすべて背骨を中心に組み上げられたような姿勢も、正直であること、自由であること、そのふたつに裏付けられた自信のようなものとして私には伝わってくるのだ。
「おい、そんな言い方はないんじゃないか..」
そして一番うしろからついてくるこの中肉中背のメガネは根っからの善人だ。私は決して贔屓はしないが、どう生まれてどう育ったらこうなるのだろう。家ではでかくて青いネコを飼っている。この生徒たちを交互に眺めていて私が思うのは、人の行動にはそれぞれに必ず身勝手な動機がなければならないということと、人は他人のその身勝手な動機によってなんとか生かされているということである。
レイル6は、玄武岩の石畳のような硬い道から、いつのまにか丸い石と礫の混ざった砂利道に変わっていた。実はこれは誰かが意図して作った表面ではない。このあたり一帯の地形も、自然に作られた地形ではない。当時このあたりは50メートルほどの高さの頂上が2つ連なった丘だった。丘は背丈の2倍ほどの藪とむき出しになった閃緑岩か安山岩の大きな岩で覆われていた。私の通っていた高等幼年学校もここからさほど遠くなく、悪ガキたちはこの絶好の斜面に秘密基地を作りトラップを仕掛け息を潜め、相手チームの襲撃を泥団子の爆弾で迎え撃ったものだ。本当の爆発が起こったのはそのしばらくあとである。丘はその瞬間重粒子線を遮断しはしたが、直後の爆風に耐えるには小さすぎて、街のがれきと一緒になってどこかに吹き飛んでしまった。巻き上げられた川が降り積もってできた砂利道は、今はまるできれいに整備された美術館のエントランスのように、一定の深さで沈み、いつも一定の歩きにくさで闖入者を迎えていた。そのリズムに浸かって私は、何日か前に着いた昨年の教え子からの手紙をただぼんやりと思い出していた。
ハロハロ!
先生、それにみんなも元気?
わたしはいまゴード島にいるのです!
信じられる?
リドという通りにある、
大きな金物屋の前の赤いベンチ。
この1週間、
ここは私のお気に入りの場所なの。
街の人たちは、
日が昇るとわらわら通りに出てきて
一斉に体操を始めるの。
ひとつひとつの振りには
それぞれに掛け声が付いていて
どうやらそれは、
大昔の詩を今の私達の言葉に似せた
まるでお囃子のようで
正確にはわからないけど
大体こういう意味だと思います。
陸にあがれば
三番目の大ムカデ
丸い足
丸い耳
帆を降ろせば
四番目のウミウ
二つの肘
二つの膝
青いお皿をさかさに伏せて
もとの港に帰りなさい
それを聞きながら私は、入院していた長い長い時間を考えます。その時々で自分のまわりにあったいろいろな物やたくさんの人をできるだけ正確に思い出そうとするのだけれど、このお囃子とまるで同じで、どの画像にも言葉にも重さというものがまったく無いのです。私は、私のまわりのあらゆる歴史を、恨んだり悲しんだりすることや重荷に思ったりすることはもう決してありません。
先生。
この島に来る少し前、
病院から桟橋をめぐる散歩の途中
街に抜ける道で
偶然トキに会いました。
その日は定期検診だったそうです。
-- もううんざり
だってクサってたわ。
そして私にはこう言ってくれました。
-- 大丈夫。あなたはなにかの役まわりを演じなければならないわけではない。そのまま軽快な魂をもって人に美を成すことができればそれで良い。濁ってものを見る連中と一緒になって濁ることはない。
これって先生の教えですよね。
こんなお話は失礼かもしれませんが、
もう長いこと会ってないんでしょ?
でもものすごーく元気だったよ。
安心してね。
「なあ、今朝掲示板に入荷のメモがあったぜ。来週の薬剤だろ」
「当番だれ? 帰ったら配達さんまで行って来てよね」
「俺かよ。やだなあ。お前たのむよ」
「えーー、..いいよ」
あら、それでいいのか。元気であることだけを触媒にしてわけのわからない会話もちゃんと成立する、それが若いということか。
この配達さんというのは三十がらみのパートタイマーで、少し面倒な人だ。なにしろ生まれてからずっと同じ家に住んでいて、その歳でもなお母親との相互依存を背負ったままで暮らしている。当事者になることや責任を問われるような発意は母親に預けたままで、会話はいつも疑問や訴えの体をもって交わされていた。自分を満たすものや助けてくれるものが眼の前に現れればそれを捉えようとはするのだが、普段は母親と同じひとつの硬い殻の中でしか息をすることができないようだった。そもそも人の欲求は、生存に直接影響しない場合は他者と関わるかたちでしか存在しない。自分の原則と他者の原則との間で極めて重要な調整を行うのが自分と他者との間の「細胞膜のような境界」である。それは幼児期を終える頃には母親を排除し自分ひとりのものになっていなければならず、形や大きさは自分からも他者からも認識されていなければならない。そして硬く動かない殻であってはならないのだ。そろそろ60だという母親の寿命が尽きてさえくれれば、不遇の三十年を耐えてきた配達さんにも死に向かって生きるおおまかな覚悟が芽生えてくるのだろうか。「細胞膜のような境界」は形成されるのだろうか。不機嫌な魂をすっかり脱ぎ捨てて配達さんはもう一度誕生することができるだろうか。
細かい雨が降ってきた。湿度は依然低く空がうす明るいままのところを見ると、天気予報のとおり1時間ほどでやむのだろう。ザックや背負子を下ろすのが面倒なのか、フードを取り出して被ろうとする生徒はいなかった。アボットなどは気持ち良さそうに上を向いて大きく口を開けたまま歩いていた。
アボットはその大きな体のせいで、「なにか飄々と捉えどころのない隣のお兄ちゃん」みたいに周りからは見られているが、いやどうして、この男が人の心理を的確に仕分けて厄介事を穏便に片付ける能力はたいしたものだ。先月も、イゼゴラのボランティアたちの中で起こった諍い(くだらないものほどややこしいのである)をひとりで鎮めてしまった。
人が仕事場に集まれば、休憩時間や終業の開放感をきっかけに必ずグループができるもので、複数のグループができれば揉め事の種はそこら中で芽生えるものである。その火種がくすぶり始めるきっかけは多くの場合「頼朝に義経を讒言したる梶原景時」だ。人と人との関係は極めて流動的で繊細なものであり第三者はこれを簡単に毀損することができるのだが、普通の大人は恥ずかしくてそんなことは決してしないし、子供ならば「陰口を言うな聞くな他人の代弁をするな」という教えをただ守ることによってその意味を学習してゆく。景時の悪意はこの自然な構図を踏み潰すほどに膨れ上がってしまったということだ。それが私であれば景時の悪意に憤り、追求し、償わせようともするだろう。だがアボットは、悪意の景時 vs. イノセントな御曹司頼朝、という組み合わせの、頼朝の誤謬を頼朝に説いたのである。その結果、景時の悪意はその目的に立ち返り、ボヤは自然に鎮火してしまったのだ。もちろん讒言などは卑劣で恥ずべき行為に違いない。だが讒言に限らず、私達はつい「背景のない悪意など無い」ということにまで思いが至らず、自分にとっての不条理を正義として振りかざしてしまう。エゴ、独善、ひとりよがり、私は私の中のそれをまた省みる。私は彼ほどに多様な人間像を心のうちに描くことができるだろうか。それどころか蒙昧な自意識にまみれ、このくだらない人生の承認を得るためだけに自分の思いを人に説いたりはしていないだろうか。
処理場の資材と思われる鉄骨が何十本か野積みになった広場が藪の中から現れたのは、出発してから3時間ほど経った午前11時過ぎである。
「この裏ですよね」
先頭を歩いていたボウスが足を止め、はじめて少し緊張した様子で振り返った。
アボットもその後ろでいったん立ち止まってから、少し中腰になって積まれた鉄骨の右側をうかがうようにそろりと前に出た。
「あそこです。あそこに立っていました」
「行ってみよう」
「ええ」
6人は固まって鉄骨の先を回り込むと(私とノビタとコステロは他の3人の後ろに隠れておそるおそるだったが)、2mくらいの高さに盛り上がった土の塚があった。最初は大きな蟻塚のようにも思えたが、近づいてみると塚の側面に人が通れるくらいの穴がひとつぽっかりと空いていて、その少し中には濡れたように鈍く光った四角いドアのようなものが見えていた。
「気をつけて」
「足元は固まっているみたいです」
「え、おれが先かよ」
「いいえ、私が一番乗りだわ」
ヘジュが進み出て躊躇なくドアの中心に触れたときには誰もが首をすくめたが、彼女が押してみると、ドアは左端を軸にしたリンク機構のような動きで内側に沈みながら、意外な軽さでほとんど音もたてずにあっけなく開いてしまった。こちら側からしか光は入っていないようだったが、中はそれほど暗くなく、20度ほどのゆるい勾配で下る階段になっている。1段のピッチは2-3歩ほどもあって、段差も小さい。コステロは自分のザックを降ろし、準備してきたくさびを3個取り出して、このあと間違ってもドアが閉じてしまわないようドアと壁との間にアンカーを打ってそれらを固定する作業を始めた。他の4人(私は監督で応援団だ)もその間、周囲の写真を撮ったりサンプルケースやメモを準備したりして、それぞれに分担した役割を確認しているようだ。
「気味が悪いわ、この階段。ドアと同じような材質でできてるみたい」
「ほんと。表面は黒色クロメートみたいね」
「それにしてもドアはかなり軽いな」
ノビタはコステロを手伝って、開閉の重みを確かめるようにドアを支えていた。
「歴史ってやつはなんかもっと重たいもんだと思ってたがね」
私は強がって軽くボケてみせたのだが、声が裏返りそうになっていたし誰もツッコんではくれなかった。いつものことなので気にしない。
「壁は輝石安山岩ですね。普通に手彫りのトンネルってところかな」
「おまたせしました。ドアの固定OKです」
コステロが作業を終えたようだ。
「みんな準備はいい?」
ボウスだ。こいつを助監督に任命しよう。
こうして我々は「その場所」へと足を踏み入れた。気温が下がってきたのか、冷気が背中を這い上がってくるような感触に私は少し不安を覚えていた。
いま父は、何本も電車を見送りながら、途切れることのない人の流れの中、じっと動かずに、ひとりホームに立ち続けているような、そんなふうに僕からは見える。母はあるとき僕だけを連れて島を出た。自分が父を恨んでいるのかどうか、母を慕って良いのかどうか、僕は今でもわからないままでいる。父は自分の母親(僕の祖母だ。覚えてはいないが)が遺した書物を整理しながら、一度だけ僕にこんな話をしたことがある。自分が育った家庭は作り物だ。自分は、父と母が喧嘩をしたりくだらない話で笑ったりしているのを一度も見たことがない。憎み合っているのかと思えるほどお互いの存在を無視しているようにも見えた。どこの家庭もこんなものかと最初は思っていたが、学校に通い様々な人々と接するころになって、何かが違うということは自分にもだんだんとわかってきた。これは自分のせいなのかと悩んだこともあるし、取り繕おうともした。だが結局何もすることはできなかった。だから、そのずっと後、子供を手放したことについて自分は後悔などしていない。あるのは無力であった自分に対する軽蔑。そして人間に対する醜い恨みだ。お前にとっては納得できないことがこれまでにいくつもあったかもしれないが、お前が、理解できないことを安易に切り捨てたりただ非難したりせず、軽快な魂で社会を受け入れ自由な成長を遂げるための最善の選択と自分は信じた。もっと違う方法があったのかどうか今ではもうわからないし、自分自身を弁護するつもりはない、と。僕には、それはあまりにも独善的に聞こえたし、半分ほどしか理解できなかった。なにより母がずっと苦しんでいた病気がそのことと関係があるのかどうかを聞くことができなかったのは心残りだったが、ただいつも父親と会う時の気恥ずかしさが、不思議とその時は消えていた。
30分ほど歩いて、ギルガは自分も何度か呼び出されたことのある100平米くらいの小さな部屋の前にたどり着いた。そしてドアに鍵がかかっていないことを確かめると、煤で汚れきった両の壁に触れないようよく注意しながら部屋の中に入っていった。そこはソビスタ(指導者層の中でコーチのような役割を担うとされる階級の呼び名である)たちの応接室で比較的明るい空間だったはずだが、今はもう、まるで使われなくなった映画のセットがほとんどの色彩を落としたかのように、人の匂いまでもがすっかりと抜け落ちてしまっていた。部屋の西側にある灯り採りの窓ガラスは白く曇り、ヒリウスの沖に碇を降ろしたままの貨物船が、石墨で形どった水彩画のように輪郭を浮き立たせながら映りこんでいた。
ー 論評や解説に頼ってしか生を楽しめない人間は不幸なものだ。
ギルガは手袋を脱ぎ、ポケットにあった白い紙の包みをほどき、夕陽が照らすテーブルの上に中のものを取り出した。それは一匹のミツバチだった。彼の命(魂があるのならその魂)が今どのあたりに在るのかは見当もつかないが、足先はまだかすかに動いているようだった。ギルガは前にイチガヤで手に入れた樫の柄の付いたナイフをポケットから取り出し、刃を開き、両刃に研がれた片方の縁をミツバチの腹にあて、自分の小学校の理科の成績が「B」だったことを思い出していた。それは、わずかな「C」をよりどころに他の全員が善人で多数派である事を保証するという伝統的な技法だったが、今は何の役にも立たなかった。
そうだ。成績と言えば、あのころ同じクラスに体育以外のすべての教科が「A2プラス」だった女の子がいた。「A2プラス」なんて評価を1教科でももらった生徒はギルガの知る限り他にはいない。やつらに連れて行かれる前の日まで、毎朝こんな歌を歌っていたのを覚えている。名前は思い出せない。
私はかもめ
ガガーリンじやないの
偏西風に乗ってここまで来たわ
あなたは言うのよ
ザッツシモキタ半島
ポプラの花粉は飛んでこない
なんだよその歌。
島のずっと北にある半島の歌よ。キャラメル食べる?
うん。どんな意味?
わかんない。ただ曇り空に砂漠から吹く風に乗って聞こえてくる歌、っておばあちゃん言ってた。
ふーん。お前こんなとこまで来て大丈夫なのか。
平気よ。1時間めはカッチョ先生だっけ。帰りは押してってね。
いいよ。カッチョかー。今日の給食なんだっけ。
なんだっけ。コーンブレッドならいいな。
いいな。足寒くないのかよ。
うん。そろそろ帰んなきゃ。
帰んなきゃな。
彼女に会いに行ってみよう。顔を見れば名前も思い出すだろう。この街もやつらもソビスタたちも(生きていればだけど)、もう僕のことなんかどうだっていいはずだ。ミツバチなんて放っておけ。
でもどこへ?
シモキタ半島に決まっている!
でも何に乗って?
君のあの赤い車に決まっている!
でもどうすれば?
ガソリンを入れるに決まっている!
ソビスタの応接室から建物の東の回廊をさらに40分ほど歩くと、ゲートの反対側にある事務棟へは外に出ないままで行くことができた。ギルガはその地下にある書庫に入り、600年前のこの国の北半分が収められた黄色い表紙の(実際にはほとんど茶色だったが)地図帳を探し出した。そして港の救護院でPL6のおばさんが最後に言ったとおり、その中から一番新しい年代のページを繰り出し、何枚かをロールシートに写し撮ることをはじめた。地図にある島の形はもちろん見慣れた弓形のままだったが、細かく織り込まれた縦糸と横糸でできたような硬い文字と、微妙な角度で大きなカーブが交差する柔らかい文字との組み合わせは、数字以外彼にはまったく読むことができなかった。これが「カンジ」「ヒラカナ」と呼ばれていた古い文字だということは学校で習った。使われなくなって何百年か経つはずだ。地図の上のいくつかの地点には番号がふられ、おそらくはその土地のものであろう小さな写真も印刷されていた。それらを見てギルガはひとつひとつの文字の意味をバラバラにだが昔知っていたような錯覚(錯覚なのか?)にとらわれた。そこは自分のよく見知った土地なのではないかという感覚もたしかにあった。たとえばこの左右にほとんど対象な「日光」という文字を持つ土地は、おそらくただシンボライズされただけのほとんど功も罪も無い場所に違いない。横にふられた1という数字がよく似合っている。なぜかギルガには、自分はいつかこの地図にあるほとんどの土地を、地図に振られた番号どおり違わずに訪れるだろうという確信があった。であればシモキタ半島にもいずれたどり着くことになる。ギルガの胸はすこし鳴った。
コピーを終え、閉じた地図帳を片手に持って埃を払っていると、黄色いなにか紙のようなものが萎れた頭を小口からわずかにのぞかせていた。それは4枚、別々のページに1枚ずつ挟まれた付箋だった。やはりカンジとヒラカナで埋まっている。少し角ばった手書きの文字は、ひとつひとつがまるで意思を持ったチェスの駒みたいにそれぞれの受持ちを堅く守っているようで、その整頓された調子にギルガは目を奪われた。いったい誰がどれほど前に書いたものなのだろう。ギルガは地図帳を持って隣の閲覧室に入り、備え付けられた大きなテーブルの上にこれを開き、横に付箋を並べ、それらを交互にくりかえしながめてみた。
3枚の付箋には、それぞれにひとつの文字列が書かれている。どの文字列にも区切り文字と思われるものや改行またはスペースは一切無く、さらに文字数が25個に統一されているのは何らかのルールだろう。もしかしたらゲームの一部やなにかの鍵なのかもしれない。地名をあらわす「カンジ」は、地図と照らし合わせればそうであることがすぐにわかる。見つけた地名をひとつずつ確認しながら、ギルガは、文字列の最後から3番めに「無」というハッシュタグのような文字が必ず付いていることに気がついた。それは前から23番目でもある。ギルガは数学も得意ではなかったが、それでも気持ちの良くない特別な数であることはわかる。これは暗号だ。
会津西街道日光地徳川松平因縁彫長深谷縫走戒既無解恨
朝私大陸上独立歩道人車音広羽州街道立傍流雄物無川堤
日高見支流和賀流里水陸万傾地腕力足意思胸喜口無言葉
4枚目の付箋には小さな写真が貼り付けられており、その下は、写真と同程度のスペースに今度は長い文字列がぎゅうぎゅうに詰められていた。こちらは先の3枚とは違って、我々の言語でも用いるピリオドやカンマらしきものもたくさんあった。そのピリオドで区切られた文字列、すなわち文のようなものは合計で5つ。しかしカンマを含めてもそのリズムすらほとんどノイズのように雑然としたままで、地名として読める「カンジ」は1割ほどしかなく、今度はハッシュタグも無い。平たく言えばとっかかりがなにも無い。ギルガはもう丸2日間寝ておらず根気もほとんどなくしかけていたが、それでもなにかヒントは無いものかと椅子から立ち上がろうとしたところでその写真に両眼が吸い寄せられた。そこには写るはずのないものが写っていたのである。
釜石街道を十里ばかり東へ入った山間に釜石側と花巻側北上側との分水嶺在り。花巻へ向かうは猿ヶ石川なり。此処から少し三里ばかり西にて合流する小鳥瀬川はその上流にいくつかの集落を養へり。うち遠野郷には全身翠色の蛙のやうな妖怪が多数棲むと云う。江戸在の平賀某から譲り受たるカマラオブスキイなる仕掛にて姿を追いせしに、
されどさやうな妖怪など映るべくもなく、此れより内に踏入るべき因縁も非ざりき。
自分たちの世界にそれがやって来たのは3年前。正確には2年と10ヶ月前だった。その姿が600年前の写真に写っているなどあるはずはない。破れたとか古くなったとかの理由で写真だけ最近のものに差し替えられたというのだろうか。だが古い地図も使われなくなった文字も、こうして保存されているのは歴史的な資料としての価値が認められているからだ。写真だけが差し替えられるなんてありえない。それよりも、そもそも過去にその600年という時間が本当に存在したという証拠はどこにある? 仮にそれがそのとおり存在したのなら、やつらは一体何をこの星とそのまわりに仕組んできたのだろう(600年もかけて!)。そういえば最近自分のまわりにはおかしなことが続いている。新月になると毎朝必ず降る秋の霧のような天気雨とそのときの低い耳鳴りもそうだし、眠りから覚めるときに何秒か起こる黄色と青の色の反転には吐きそうになる。もしかしたら僕は生まれたときから後頭葉かなにか頭のどこかを病んでいて、このまま最後の正気も失ってゆくのだろうか(まだ残っていればだけど)。しかしまあそれならそれでもいい。少しは気が楽になるというものだ。
ともあれ、少しの手がかりとその倍ほどの疑問を背負って、ギルガは出発した。
さてこの幕間を利用して、諸君にお話しておかねばならないことがある。
世の中には、わがままで勝手で複雑だが正直で力強く能力にあふれ、しかしその悪人の仮面は絶対に外さないタイプの女が一定数存在する。そのような人種をわたしは決して嫌いではないが、あまり近寄りたいとも思っていない。あらゆる面倒を全て引き受けてしまいそうな気がするからである。だがある日、わたしはうかつにもその美しい女に恋をした。それはこんな短い手紙から始まった。
[あの女の手紙]
そうよ
一年はここの何もかもを
錫の置物に変えてしまった
ぬるい太陽とチタン色の雲
あなたに似た悪魔の鼻息は
鉄の燃える音
だけどわたしの涙は銀の鈴
金のお皿に寄り添うの
なぜこのような取るに足らない心の疵を私は今ここで開陳するのか。それは、手紙の主が、ギルガの幼な馴染の少女(同い年なので今はもう21歳だ)と浅からぬ縁にあるからである。さらにこの手紙がシモキタ半島で投函されたものだからである。私には、このあとこの女がどこかで唐突にあらわれて、皆様のご機嫌を多少なりとも損ねてしまうだろうことが容易に想像できるのだ。もう少しはっきり言うとそれはいまここにある。したがって、あらかじめお詫びをしておかなければならないのである。